31年

大したことはなにもない人生を振り返るためのメモ

幼稚園の話

3歳離れた姉が園服を着て動物の絵が描かれたバスで幼稚園に通うのを見て、私はどうしても幼稚園に行きたくて行きたくて、本来4歳児から入園のはずがどうごねたのか3歳から通わせてもらった。同級生が年中さんにあがるのを見ながら、私はもう一回年少さん。なんとなく元同級生も本来の同級生とも距離を感じた。私は一人遊びが得意な子供になった。
幼稚園は好きだけどよくさぼった。もう今日は帰りたいと思う日は仮病を使って両親を呼び出した。
両親はもちろん仮病だとわかっていただろう、父か母かあいている方が迎えに来てくれて、必ず幼稚園の近くのドーナツ屋さん(昼過ぎには売り切れてしまう)じゃりじゃりした砂糖がこれでもかとかかったげんこつドーナツを買ってくれて、ビデオ屋さんに寄ってミッキーのビデオを借りて帰った。
私のさぼり癖は未就学児の時からなのかと自分でも呆れる。ここから小学校、中学校、高校、大学、留学先、今に至るまで、気分の乗らない時はすぐに休む。
私はずっと他人と距離を感じている、どこまで行っても年中さんにあがりそびれた子供の気持ちで、人が動き話すのを眺めている。
見回せば大人っぽすぎる人と、子供っぽすぎる人、私っぽい人は見当たらない。 

とても小さかった頃の話

乳幼児の記憶は普通ないというが、私が見た夢なのか妄想なのかなんなのか私には極古い時期からの記憶がある。

一番古い記憶、私は家のリビングで母に抱かれている。隣には私に会いに来た母の友人だろうか、家族ではない女の人。薄い黄色っぽいノースリーブの腕。母が立ち上がると、女の人が抱いていてあげると腕を伸ばす。

優しいけれど怖かった。優しいから怖かった。女の人が持ってきたリボンの箱と入れ替わりに貰われちゃうんじゃないかって。
私は泣いた。「あーやっぱママじゃなきゃだめだってぇ」と女の人は笑って私は母の腕に返された。危なかった。
こんな調子で断片的に乳幼児期の記憶がある私だけれど、そこからもう少し進んだ子供の頃の不思議な体験がある。
横になって目を瞑らずに天井を見ていると自分の体がぐるぐると周りはじめ、天井がぐんぐん高くなっていく。まるで私の体がハンドルになって世界を持ち上げているみたい。隣に寝ている姉はどんどん遠ざかって見えないくらい小さくなる。声は聞こえる、私が「みんなが小さくなってる」と言っても子供の戯言、誰も本当だとは思わない。
小学校に上がるくらいまでぐんぐん伸びる廊下や屋根、小さすぎる犬をぼんやり眺めていた記憶がある。私の夢には今でもよく手のひらに乗るほど小さい犬が出てくる。
妄想にしてはあまりにリアルだったため検索すると「不思議の国のアリス症候群」とよばれるもので、ヘルペスウイルスの一種の感染症で起こり得て、日本人のほとんどが幼少期感染するらしい。本当?
みんなもあるのかしら、思い出したのも久しぶりだし誰かに話したこともない。豊かな想像の世界だと思ってたものがウイルスのせいだなんてあんまりだ。
 

故郷の話

私の生まれ育った所は、おもちゃみたいな小さな観覧車が見下ろす小さな街。レンガの元工場や大きな蔵が立ち並び、観光地にするほどの派手さはないが、どことなくハイカラで文化的でとても魅力的な街だ。
この土地の人間は大抵この土地を熱狂的に愛している。
一年に一度のお祭りでは中心部のほとんどが交通止めになり道のあちらこちらに無数の櫓が組まれ、それを囲んでこの街の人間しか踊れない踊りを踊る。踊ってはまた別の輪に飛び込んだり離れたり、踊りながら歌いながら恋しい人がいないか視界を探る。
街全体ですれ違えないほどの人が牛歩よろしく行軍する。全部地元の人間だ。
スイミーみたいに身を寄せ合って街全体、路地という路地に人が詰まり大きな生き物のように繋がる、あの熱狂は筆舌に尽くしがたい。
友人の多くは県立高校から県内の大学へ進学し県内で就職した。都内や地方の大学へ進学した人も、結果的になんとはなしに地元に吸い寄せられていく。
多くの人間があの街に留まる努力をするなか、私はあの街から無意識的に遠のいた。あの土地に郷愁こそあれど、熱狂することはできなかったのだ。
地元が嫌いなわけでも特別東京が好きなわけでもない。ただ、あの街にずっといる自分の未来が見えなかったし、それは今でも見えない。
ではどの街で最期を迎えるのだろうか。今住む街でもあの街でもない。どこが私の故郷になるんだろうか。旅はまだまだ続きそうだ。

家族の話

家族仲が良いよね。とよく言われる。

昔からよく家族総出で出掛けていたし、私達兄妹が全員実家を出た今でも姉の旦那や子供を含めて国内一回、暇な大人だけで行く海外一回はここ数年欠かさない。
私達はごく親しい人とするように笑いながら思い出話をする。私が子供の頃池という池に飛び込んだ話、父が亡くなる前に放った渾身のブラックジョーク集、姉の好き嫌いの話、いい加減な母のいい加減な料理の話。
しかし、私達はごく親しい人と当然するような心の触れ合いをしない。
私達兄妹が子供の頃どんな活躍をみせても、人生に疲れてどんなに落ち込んでいても、父が亡くなっても、私たちは決して自慢したり互いを讃えたり、心を開いて相談したり、ましてや慰めあったりしない。
私達にとって家族は一番身近な世間で、その世間様にみっともない真似をしてはいけないのだ。笑顔で挨拶をかわし近況を話し合い、昔ながらの共通の話題に花を咲かす。それ以上の事を人様に求めてはいけない。
対家族のコマンドは「談笑」しか許されていない。
そんな徹底した個人主義を今では心地よく思うけれど、子供の頃は寂しかった。
勉強がどんなに出来ても、絵がどんなに上手でも、「自分が出来ることを驕ってはいけない」と窘められた。
母は運動会でも受験でも応援しなかった。「人生なるようにしかならない」から。
ある時なぜ子供の頃褒めなかったのかと聞いたら「あなた達割と優秀だったから近所の人も先生も褒めてくれてて、私まで褒めたら失敗した時にみんなの期待で潰れちゃうんじゃないかって。失敗して『ごめんなさい』なんて言わせたくなかったの。
なるほど。なるほど…?いや、その深すぎる愛、子供には伝わらないよ??まあいいか今ではわかる気がするから。
そんな家族の関係が心地よく、またいつまでも心地悪い。
私にとって家族とは一番近い他人で、その他人を大切に思う気持ちを大事にしたい。それは世界のどこかにいる顔も知らない他人を大切に思う事と同じだから。

3歳離れた姉の話

姉と私はすべてが反対だから、姉の事を語るのは同時に客観視して反転した私を語る事になる、だから少し難しい。
姉が出来る事は私が出来ない事、姉の良い所は私の悪い所。
姉は子供の頃からピアノを弾いていた、バイオリンも弾いていてた、声楽もやっていた。子供の頃から姉はあまり家にいなかった。毎日レッスンレッスンレッスン。当然のごとく音楽科のある高校に進学して、そのまま音大に入った。
姉と音楽は常に共にあるけれど、音楽は姉を愛していないように見える。
まずひどい音痴。主旋律という概念がよくわからないらしい。ほんとか?
バイオリンは姉の歌声と似ていて甘ったるくか細いかと思いきや急に大きい音が出たり、寂しくヒステリックなサウンド。ピアノはまあそこそこ。
それでも姉は不思議なほどめげない。音楽を愛してその力を信じて疑わない。
努力努力努力でずっと生きている。今も。
で、私はその逆。
正反対の私たちはオセロの表と裏のようだとずっと思っていたけれど、実際はメビウスの輪のように循環しているのかもしれない。
姉の話は私の話に、私の話は姉の話に。ぐるぐるぐると私たちは離れない。

6歳離れた兄の話

兄はぼんやりした人だ。少し浮世離れしている。
友人でも恋人でも誰かと寄り添う姿は想像できないし、本人もそういうクリアな輪郭を求めていないように見える。
兄が好きなものはいくつかあるけれど、その愛し方は今時ではない。
例えばゲームが好きで新しいハードが出ると必ず買う、それを象徴するようなソフトも一通り買う。ジャンルは問わない。今時の所謂オタクと呼ばれる人のようにネットで情報を収集したり、配信したり、交流したりはしない。ただ自分の興味だけを満たす。
こう書くとなんだかすごく健康的な人のような気がしてきた。なんと欲のない。清浄だ。
先日、昔私たちが遊んだソフトが配信される事になったねと言ったら、ひどく驚いて何で知ってるのか聞いてきた。twitterでみたんだよと言ったら、お前の友達にゲームに詳しい人がいるのか?と聞いてくる。ちがうよtwitterでそういうアカウントをフォローしてるから自然と情報が入るんだよと言うと、俺はファミ通でみたんだけどなぁと言う。
すごい!いまだにファミ通が情報源のゲームオタク!清浄だ!いつまでもそうあってくれ!
兄はぼんやりした人だ。
思春期、私は兄の事がたまらなく嫌になったことがある。生理的に受け付けなくて何年も口を利かなかった。何年も。私が大学に入ってしばらくしたある日、数年ぶりに話した。「ご飯だって」だかなんだか忘れたけど、大したことない言葉をかけた。今さらなんだと怒られるかなとも思ったけど、兄はなんでもない風だった。
その晩兄はコンビニの袋を私の前に置いた。中には色んな味のハーゲンダッツが入っていた。

 

母の話

母の話。母の話。
父ほど話すことがないように感じる。
仲が悪いのか?そんなことはない、毎年一緒に旅行をする。去年は香港、今年は台湾。旅行のプランニングは全部私がする。
存在感が薄いのか?聞かれればそんな事はない。強烈だ。
見た目が?そんなことはない。派手でも地味でもないごく普通、かどうかは判断しかねるが普通の明るいおばさんだ。
とんでもない毒親なのか?そんなこともない。いや、どうだろう。誰にとっても親は自分を育む養分であり、摂り過ぎてはいけない毒でもあるんじゃないか。
つまりはまあなんというか、一番近くて一番遠い他人だ。
見た目は中肉中背、丸顔、年の割に若くは見えるが、ひどく剛毛の癖毛を伸びるままにしている、その制御の利かなそうなヘアスタイルがまさに母を表しているように思える。
口癖「人生なるようにしかならないのよ」
好きな物「北杜夫インカ帝国
趣味「石集め。集めた水晶やらなんやらで祭壇を作ること」
特技「サスペンスドラマの犯人を当てる」
なんだかひどくいい加減な女だ。
母親というのはどれも同じだろうかアド街ック天国で紹介された場所に行きたがる。
娘はそれほどでもないが東京で働いている娘は大好きだ。東京で買ったものをあげるとひどく喜ぶ。
私が母の恋愛にブルースウィルスの毛ほどの興味がないのと同じく母は私の恋愛の話を聞かされるくらいなら再放送のサスペンスをみていた方がましなようだ。
先日父の命日にプラネタリウムが見たいとリクエストされた。
「丁度命日だし、あの人は星が好きだったから」といって指定してきた日は父の命日ではなかった。
本当に空気感だけで生きている女だ。
スカイツリーの眺めの良いレストランを予約して2人で昼からシャンパンを飲んだ。
小さい頃からインカ帝国が好きで好きで、短大を卒業したらとりあえずメキシコに行こうとスペイン語を勉強していたら父に出会って結婚してしまったこと、石が好きなのは母の父が子供の頃良く山へ採掘に連れて行ってくれたからだということ、31年母と付き合ってきて初耳な事ばかりだった。
私の驚きを酔っ払いの母は感じなかったようだ。
初めて母を母親としてでなく一人の人間として感じた。
ずっと合わないと思っていたけど同級生だったらもしかして、いい友達になれたのかもしれない。
そう思えた今年の父の命日(仮)だった。